紅茶はイギリス人がいなければ、ここまで世界に広がる事はなかったと言っても過言ではありません。その位、イギリス人は紅茶の発展に重要な役割を果たしています。
最初にお茶を口にしたヨーロッパ人はオランダ人と言われていますが、当初は「お茶」は嗜好品と言うより、東洋からきた神秘の薬というふれこみで広がり、今では考えられないほど高価でした。
それから時は経ち、17~18世紀のイギリスにて、今日でも紅茶の会社として続いており、世界的に有名な「トワイニング」が紅茶の歴史に大きな一歩を踏み出します。

トーマス・トワイニング

18世紀初頭のヨーロッパにおいて、貴族階級の飲み物だった紅茶を庶民の飲み物として広めようと考えたトーマス・トワイニングは東インドに勤め、紅茶の取り扱いを始めます。
紅茶の卸売りと小売を始めたトワイニングは大きく販売をを伸ばし、店を増やして事業を拡大します。その際、開店したお店のひとつが今日も残る「ゴールデンライオン」です。
こうして、トワイニングは紅茶とコーヒーを扱う会社「トワイニング」の基盤を作り上げていきました。
その後、4代目トワイニングである、リチャードが高すぎる紅茶の税金に対して政府に引き下げを直訴します。
その時のリチャードの言い分はこうです。「税金を高くして紅茶の密輸が横行してしまうより、税金を安くして正規品の販売を増やした方が結果的には税収は増える」
イギリスの首相であったウィリアム・ピットはこの提案を受け入れ、税制改革を行います。結果、減税前は589万ポンドだった消費量は1年で約3倍になり、この改革は大成功に終わります。
この減税により、トワイニングの成長が始まり、今日の「トワイニング」へとつながる大きな足がかりとなりました。

C・Aブルースとアッサム茶

スコットランド生まれのイギリス軍人、ロバート・ブルースは1820年当時、東インド会社の軍隊の一員として、アッサムに滞在していました。
その際、ジュンボー族と呼ばれるシブサガルという地に住む民族の族長と会い、この地に茶の木があるという情報を聞き、その事を弟のC・Aブルース(チャールズ・アレキサンダー・ブルース)に伝えた所、大変、興味を持ったC・Aブルースはシブサガルに入った際に兄から聞いた情報どおり、茶の木を発見する事に成功します。
この時、発見された茶の木こそが中国種以外で世界で始めて世に出た茶葉である、「アッサム種」です。現在ではとても有名ですが、当時としては世紀の大発見でした。
この発見の翌年には兄・ロバート・ブルースは死去。弟のC・Aブルースがこの地でアッサム種の茶葉の栽培を行う事を決め、茶の木の栽培に尽力します。
結果、C・Aブルースはアッサム種の栽培に成功し、これより世界中に広がっていく、アッサム茶を誕生させる事に成功しました。

アヘン戦争

紅茶の消費が高まるにつれて、中国との貿易も盛んになりましたが、茶葉と銀を交換していたイギリスは国内の銀が激減した事に危機感を覚え、銀の代わりにインドで栽培されている「アヘン」と茶葉を交換する事を始めます。
これ以降、大量のアヘンが中国に流れ込むようになり、蔓延していきました。1839年、危機感を覚えた林則徐が広州でアヘンを没収し、焼却処分とします。
この事件を契機に中国とイギリスの「アヘン戦争」が勃発します。翌年の1840年、本国からイギリス海軍が到着し、圧倒的な軍事力で次々と拠点を攻め落としていき、中国は破れ、イギリスは勝利します。
2年後の1842年、南京条約が結ばれ、イギリスは香港を獲得。その他の港も中国に開港させるという結果に終わりました。

ティークリッパー

貿易が自由化され、アメリカをはじめとする各国が清と通商条約を結んだ事で、いかに早く中国からイギリスに茶葉を届けられるかという競争が始まりました。
ここでアメリカの新型船「オリエンタル号」が大いに活躍し、香港から95日という当時としては驚異的なスピードでロンドンに到着し、通常の2倍の値で取引されるという事が起こりました。
これにより、茶葉を運ぶ船「ティークリッパー」の競争が激化し、多くの名勝負を生みます。
現在でもイギリスにある「カティーサーク号」はこの時に作られた船ですが、進水した時には、既に帆船から蒸気船へと時代は移っており、スエズ運河が開通した事も重なって活躍の場は殆どありませんでした。

スエズ運河の開通

1869年、11月17日に歴史的にも大変、大きな出来事が起こります。それは「スエズ運河の開通」です。
この運河の開通により、ティークリッパーと呼ばれる茶葉を運ぶ帆船の時代は終わりを告げます。
帆船の時代が終わった理由は、このスエズ運河は帆船での通過を許可していなかった事にあります。帆船でこの運河を通過すると風向きによっては運河内で立ち往生したり、帆船は進む為に帆を張る必要があるので、接近などによる事故が避けられないと考えられたからです。
では、この運河はどのような船の為に作られたかと言うと、当時、最先端の動力である「蒸気機関」を搭載した「蒸気船」です。
スエズ運河を通る事によって、得られる時間短縮はティークリッパーにとってはあまりに大きいものでした。当時、喜望峰をまわるルートでロンドンから中国まで行くには90~100日を要したのに対し、スエズ運河を通るルートで移動すれば、なんと一月程度で到着する事ができたからです。この事が決定打となり、帆船(ティークリッパー)の時代は終わりを告げます。そして時を同じくして中国からのみ買っていた紅茶の茶葉にも変化が訪れます。
インドやスリランカで栽培に成功した「アッサム」の出現により、イギリスの茶葉の輸入は中国からインドやセイロンへと移行していく事になります。

ジェームス・テーラー

スコットランド出身のイギリス人、ジェームス・テーラーはコーヒー栽培の為にセイロンへと渡った人間の一人ですが、彼がセイロンに渡って10年が経った頃、大きな事件が起こります。
栽培していたコーヒーにサビ病とよばれる病気が蔓延し、コーヒー園が壊滅的なダメージを受けてしまったのです。
それから7年後、テーラーは新たな植物栽培を始めます。紅茶の茶樹であるアッサム種の栽培です。この事はセイロンでは始めての試みで、テーラーは手始めに今でも有名な茶園のひとつである「キャンディ」にアッサム種の苗木を植林します。
通常、茶の木の栽培する為の根付けに成功するまでには10年以上かかるとされていたのですが、なんとテーラーは1~2年で成功します。
テーラーはそれからも良質な茶の木を交配させ、強い品種に育てあげました。
こうして、セイロンのコーヒー園は紅茶園として蘇り、テーラーは「セイロンティーの神様」と呼ばれるようになりました。